昨日ブログで、「みんなと同じ」じゃなくていい、という話を書きました。

そこで思い出したのが、金子みすゞの詩、
『私と小鳥と鈴と』
です。

わたしが両手をひろげても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥はわたしのように、
地面(じべた)をはやくは走れない。

わたしがからだをゆすっても、
きれいな音はでないけど、
あの鳴るすずはわたしのように
たくさんのうたは知らないよ。

すずと、小鳥と、それからわたし、
みんなちがって、みんないい。

この詩の
「みんなちがって、みんないい」
という一文が、本当に素晴らしいと思うのです。

が。
ネットを見たら、
「偽善だ」
「秩序が乱れる」
「個人のわがままを助長する」
と、感じる方もいらっしゃるようで……。


詩を読めば分かるけど、
「みんなちがって、みんないい」
は、
「みんな好き勝手にやっていい」
と言ってるのではなく、
「みんな見た目も違うし、趣味嗜好も違うし、できることできないことも違うよね」
という、
「個人の特性を認める詩」
だと思うんです。

「秩序が乱れる」
「個人のわがままが助長される」
のは、
「みんなと同じことができない」
からではなく、
「共通の目的意識が、共有されていない」
からです。

学校も、
「学びの場」
という目的意識が共有されていて、みんなちゃんと学んでいるなら、どんなスタイルでも構わないと思います。

学ぶことをしない学生にだけ、カウンセリングして、「学びの場」という目的意識を再確認してもらえばいい。

そして、本人と学校の目的が合わなかったり、学ぶことに何らかの支障がある場合、違う場所、違う方法を考えればいい。

無理に、
「同じ目的」
「同じやり方」
「同じ場所」
「同じ見た目」
「同じ行動」
にはめようとするから、齟齬をきたす。

私は、
「学校は学びの場」
「仕事は社会貢献する場」
だと思ってます。

それなのに、
「学校も仕事も、みんなと同じことをする場」
になっている気がして、怖いです。

みんな、目的意識がなくなってるのかな。

目的意識がしっかりあれば、
「みんなと違う」ことに脅威を感じてバッシングする必要もなくなるし、
「みんなと同じ」ができない人も、生きやすくなるのにな。

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おしろい花の写真を撮っていたら、息子も
「とりたい!」
と言い出しました。
スマホを貸したら、おしろい花ではなく、おしろい花の下に隠れてたツブツブのお花を撮ってました。
見るところ、違うなぁ。